すごくわかったような、良いことを言う人ならいくらでもいる。
SNSを見ていてもそうだ。自分の経験や体験から得たことを真摯に伝えている人ももちろんいるが、付け焼刃だなぁと感じる人もいるし、どこかの誰かが言ったことをそのまま丸パクリしたような投稿も残念ながら見受けられる。
表面に出ているものはほんのごく僅か、氷山の一角だ。人前では良いことを言っていても、家の中では真逆…なんてことはよくある。人の本質を見抜くのは難しいことだとは思うが、「本質はどうなんだろう」という目を持って物事を観ることなら、誰にでもできる。
とかく、最近は誰もがインスタントが好きだ。たとえばわたしがこうして書きつくっている文章も、長ければ長いほど、大概の人は読まないだろう。読むのが好きな人は読むだろうが、そもそも、インスタント慣れしている現代人は「タイパ」だとか「時短」だとかいう言葉が大好きだし、それが売りのものにはすぐに手を伸ばす。「これさえ食べれば(飲めば)痩せる」と言われれば鵜呑みにして売り切れにするほど買うし、そのくせインスタント慣れしているせいか”すぐに”結果が出なければ飽きてやめてしまう。
「インスタント」恐るべし、である。こんな世の中に誰がしたんだろう。西洋化がもたらした産物の一つだろうとは思うが。
おっと、話を戻そう。つまり、何でも簡単に、効率よく得られるものが好きな現代人は、自分で咀嚼し考えて自分のものにすることにとても怠惰で、だからこそ「本質」を見失う。
わたしの友人夫婦が、ある有名な神社へ参拝に行ったときの話を例にしよう。
偶然にもその日、あるスピ系YouTuberがツアーをしていたらしい。友人夫婦はそのYouTuberのことは知っていたが、とくに興味はなかったので通り過ぎようとした。すると、ツアーの参加者ではない一般客がYouTuberを発見し、サインをもらおうとした。そのYouTuberはにこやかにサインをして一般客にサインを渡した…という話である。
どうだろうか?この文章だけなら、何の問題もないだろう。しかし、このサインをした場所がまずもって問題であった。お社の前だったのである。そこは末社だったが、末社とはいえ、そこは某有名神社の末社であり、参拝客が非常に多いところである。声を掛けられ足を止めなければならないなら、先を譲って場所を変えるのがマナーである。そしてもっと良くなかったのは、友人夫婦の旦那さんとぶつかって旦那さんの足を踏んだらしいのだが、顔を見ただけで一瞥し謝りもせず、サインをし終わると笑いながらツアー客の輪の中に戻っていったことである。これには友人夫婦も怒りを通り越してひいていた。
わたしもこのYouTuberを知っている。実際に会ったこともある。だからわたしは、「嗚呼、あの方なら、やりそうだな」と思った。本質を見抜いているからである。日ごろ仰っているほどには、礼儀作法や行動が伴っていない方だと知っていた。「神は細部に宿る」なんて言葉があるけれども、人の本質も、その人の些細な言動や行動に出るものだ。わたしは友人夫婦にこのYouTuberのことを悪く言ったことはないけれども、この話をしていた旦那さんは「あんな奴を信じて慕うスピ好きはどうかしてる」と怒っていた。
近江商人の経営哲学である「三方良し」という言葉がある。売り手、買い手、世間の三者が満足ことを良しとする哲学で、これは経営だけに限らず、さまざまな場面で用いて良い哲学といえる。
このスピ系YouTuberはどうだったろうか?三方良しだったろうか?わたしにはそうは思えない。自分のファンのためにツアーをすること自体は別に問題ない。しかし、結果的に一般客にはかなり迷惑をかけている。足を踏んで謝りもしなかった他にも、集団で騒ぎながら神社内を歩いていたようである。集団になればある程度騒々しいのは仕方がないが、そういった礼儀作法を教えるのもツアーを率いる者の役目なのではないのか?まして”スピ系”YouTuberである。そうやって周りの迷惑も考えられないで参拝されることを、神様は果たしてお喜びになるだろうか?
まぁ、そういう目線で考えられないから、やらかしているのだろうが。
そのYouTuberの動画を見ていると、とても良い人そうに見えるだろう。しかし、見えないところではどうだろうか。人の足を踏んでおきながら詫びの一つも言えない人間なのである。
そうしたところに人間の本質は出るのだし、そういったところを、”観る人は観ている”のである。
ちなみにそのYouTuber。金銭トラブル、人間関係のトラブルもいくらか聞き及んでいる。スピ系の中にはお金やパートナーシップについて引き寄せを語る人も多いが、裏側では結構ドロドロしている人も多い。注意されたし。
【本質を見抜く力】些細なことに本質は出る

コメント