「精神的向上心のない人間は馬鹿だ」
夏目漱石著「こころ」に出現する一節である。わたしはこの言葉は非常に本質的だと思うし、気に入っている。「馬鹿」だなんて乱暴だと思うかもしれないけれど、考えてみてほしい。「精神的向上心のない人間」とは、どういった類の人間だろうか。
以下、このような問いに正解はないので、あくまでわたしなりの考察であり、小説の内容を加味せず書いてみる。
「精神的向上心」とは、ポジティブであれネガティブであれ外的要因に基づく自己反応の分析に始まる。起こった出来事の意味を捉えようとする心の動き、沸き起こる感情や思考を整理するための自己との対話、そこから学びを得ること。これら一連のプロセスが「精神的向上心」の一種の表れであり、言い換えれば「内なる探求」ともいえると、わたしは考える。
つまり、常に自身に纏わるあれこれに対し、疑問や違和感を持ったならば、あるいは興味関心を持ったならば、「内省」することで自身と対峙し、真摯に向き合うことで本質に触れることが、「内なる探求」なのだ。
ところで「内省」とは、「省みる」という字が使われているからだろうか、「反省」的な意味を想起する人もいるが、まったくもって異なる意味を持つ言葉である。
「内省」とは前述したように、「精神的向上心」を醸成するのに必要不可欠な自己との対話であり、人間にこれがまったくなくなったら、どうだろうか?
わたしたちが人間として生まれたる意味はあろうか?
深く深く、唯一無二の「自分」という海を漂い、彷徨い、あるとき深く潜って、深海の底に、触れる。
これができるのは人間だけではないか?
人間という生き物に与えられた贈り物こそ「内省」であり「精神的向上心」であり「内なる探求」であると、わたしは信じて疑わないのである。
「考えすぎじゃないの?」
「もっと気楽に考えなよ」
こんなことを誰かから言われたことがあるひとたちに、このページは存在するかもしれない。かく言うわたしが、その一人だからである。誰もが深く、物事を考えられるわけではない。どんな人にもそれぞれの役割があり、そのための得手不得手があるからである。良い、悪いではない。
わたしは幸いにして、言語化することが好きだ。そして上述してきたように、気に留めてしまったことを深く掘り下げ内省することが、息をするのと同じくらい普通のことなのだ。だからこうして「考えすぎる」のは、「わたし」という人間のデフォルトなのである。
わたしにとって、「精神的向上心」に「内省」は絶対必要不可欠と言ってよいほど重要だ。これが無くなったらわたしの「精神的向上心」は無に帰し、人間としての存在価値は疑わしいだろう。それくらい、無くてはならないものである。
そして「内省」とは、深海に潜るようなものだとわたしは感じている。
まだ誰も見たことがない、触れたこともない海の底にこそ本質があり、光が届かないからこそ育まれる何かがある。そうした何か───魂が求めているものや宇宙の叡智───を探求することこそ、この地球で人間の姿のままで「魂を生きる」ということなのかもしれない。
ここで紡いでいく言葉たちは、まず第一にわたしのためにあるのであり、それと同時にきっと、「考えすぎるが言語化が難しい」と感じている誰かのためにあるはずであると、信じている。
いや、そうであってくれたらいいなと僅かばかり期待している。だって、じゃなければ書く意味がないから。
深海まで潜っても、光を見つけ出せないこともある。
海底に触れても、砂を掴むだけのこともある。
そんなときに、見つけてくれたら、嬉しい。
ここ、「深海の書斎」を。
【Introduction】深海の書斎とは
