傘を閉じ、地下へと続く階段を下りていく。
地下街。百貨店のショーウィンドウ。催事用に浴衣を着せられたマネキンは、浴衣の柄によく似合う、これまた柄の、マスクをしている。
そもそも浴衣にマスクが似合うかと問われたら、首を縦に振りたくはない。浴衣には帯を。手には水風船とうちわを。あるいはお面とわたがしにしてほしいし、顔にはマスクではなく花火に染まる、笑顔がいい。
花火大会などのイベントは軒並み中止で、どこで浴衣を着るのだろうかと考えるけれども、もし浴衣姿になれたとて、花火を見上げて緩んだ頬を伺い知れない夏。生きている間にそうそう、こんな夏はないのだろうと、マネキンに『今日もお疲れ』と、ガラス越しに氣持ちだけ置いて、今日のワタシをひとつ、落とす。
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久々に、書店へ行った。
卒業アルバムの自己紹介欄に『生息地:本屋』と書かれた過去が嘘のように、自粛のおかげで生息地ではなくなったようだ。
愛すべき人文学のエリアが漫画の陣地拡大によりほぼ消失しており、実に面白みがなく魅力のない書店と化していた。漫画に文句を言っているのではないが、知っていたら他の書店へ行った。ここなら、少しマニアックな小説でもあったのに。秘密基地がなくなったような、寂しさがあった。
しかし本屋はいい。何を読みたいかで、無意識に探すもので、今の自分が何を欲しているのかが、よくわかる。優しさなのか、温もりなのか、一筋の光なのか。久々にその感覚を味わったので良しとした。幸い、文庫はまあまあ残っていたので、自粛中に出版されていた好きな作家の小説を、作家の名前だけ確認しただけで2冊軽々手に取って、レジに向かって歩く。
レジ袋が有料になったため例の如く、『袋は有料ですが如何なさいますか?』と聞かれる。会計を済ませサブバックに自分で入れた本をぶら下げて向かう出口で、『傘を入れる細長い袋はどこの店やビルの入り口にも、今まで通りに用意されることが不思議でなりません』と、傘立ての無いこの店のドアをくぐりながら独り言ちて、今日のワタシをひとつ、落とす。
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改札を出て、地上への階段を昇る。
視界に入る人のほとんどが傘を差していたが、霧雨に見えたので、傘を差すべきか悩む。地上に出てみると実は横殴りだったので、重い鞄を肩にかけ直し、結局傘を差す。
右側からの風が強い。持ち主を守ることを諦めた傘。横から侵入する雨は首筋に当たる。書類と機器類で重い鞄が更に、重くなった氣がする。
君があの日のように右側にいたら、雨に首筋を撫でられることもなかったのかな。
こんな夜は、話がしたい。語りたいことは少ないはずなのに。日常に見えて非日常の、真実に見えて虚構の、氣づかないうちに入り込まれ蝕まれていく夜の、心許なさ。他愛もない話で氣が紛れるのなら、普段語らないことも語れる。
何でもいい。君ともっと、話がしたかった。
雨に濡れた路面に街灯と信号機の光が反射して伸びて、見ているとぐらぐらする。頭が痛かった。暗い。誰もいない。誰も見ていない。氣を引き締めるために結っていた髪をほどいて、今日のワタシをひとつ、落とす。
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長い一日が終わって、玄関のドアを開け入り、振り向いて鍵をかけた。
靴を脱いだ。
鞄を置いた。
手を洗った。
時計をはずした。
ピアスをはずした。
椅子に落下するように座って、溜息をひとつ、落とした。
やっとわたしが、息をした。
(「帰り道の思考。」2020年7月25日 wrote)
コロナ禍の異様な光景と自分の中にいつの間にか溜まってしまった疲れ。もう5年も前に書いたものだが、随分と元通りになったように感じる。夏でもマスクをしている人はいるし、相変わらずアルコール消毒とかは置いてあるところが多いけれど、それでも、コロナ禍の時に感じていた閉塞感は微塵も感じられない。
その時に溜め込んだものなんだろうか、人々は、以前にも増して良くも悪くも”主張”を強くするようになった。
SNSでは誹謗中傷の問題は絶えない。そしてくだらないことでの議論が活発だ。人を幸せにするものなら良いが、そうではないケースも多い。発信する側の言葉足らずや表現の乏しさなどもあるが、決められた文字数で伝えることが難しいことを簡単にシェアできる仕組みも良くないし、一般人の一投稿にいちいち自分の価値観や正義感を振りかざして「間違っている」と突き付けて、要らぬ争いを生むのもどうかと思う。
SNSの世界はこんなにも醜いものかと思うと、ここで書いていることもシェアするのは億劫になる。でも、本当に醜いのは、”主張”することが正義だと思っている風潮であり、また人間誰しも、そういう部分があるということを直視できずにいることにある。
”主張”せねばならない時はある。でもそれは、余計な争いを生むような”主張”であってはならない。どうしても言いたいのなら、そうならないような言い方、伝え方があるし、匿名性があるからといって攻撃的になっていいわけではない。
いろんな意見があっていい。みんな違ってみんないい。でもそれは、傍若無人に振る舞っていい理由にはならない。
誰かを攻撃しないと、誰かに勝ったような氣にならないと、誰かよりも優位でいるように感じられないと、自分を保てないようではいけない。それは、愛に基づいているとはいえない。
エゴはさまざまな場面で、段階で、つくられる。それは必ずしも悪いものではない。ある段階では自分を守ってくれる大切な一部分ではあるが、要らなくなったら手放さなければならない。それはある人にとっては、「乗り越える」と表現したほうが良いほど難しいこともあるが、一つひとつ、”ワタシ”を落として、本来の”わたし”に戻っていくよう、努力しなければならない。
SNSのガラの悪い書き込みや誹謗中傷に興じる人たちにしろ、本当に根っこからの悪人は限りなくゼロに近いのだろう。大多数の人は、本来善良な魂の持ち主なのだ。
みんな好き勝手言っている。簡単に自分の意見を述べている。だから、自分も言いたくなるのはわかる。自分が是としないことを飄々と語っているのを見かけると、一言申し上げたくなるだろう。しかし、本当に愛に基づくならば、レベルが低いことであればあるほど真剣に取り合ってはいけない。子どもの喧嘩に一緒になって飛び込んでいく大人を格好いいと思うだろうか?本当に理知のある大人なら、当人同士が解決できるようにサポートこそすれ、自ら進んで当事者にはならないだろう。
「波動」とかあまり言いたくないが、あまり波動の低いものに触れてばかりいると、氣づかないうちに呑み込まれてしまう。そして、感度の良い人ほど疲れて(憑かれて)しまう。
あなたがもし、無駄にエネルギーを消費したくないのなら、SNSを漁る時間を減らすことだ。必要以上に見ないこと。できた時間を好きなことに費やすほうが有意義だ。美味しいアイスクリームは、溶ける前に味わうから美味しいのだ。無駄に溶けてしまったアイスクリームは、見ているだけで虚しくなるだろう。時間も同じ。無駄に溶かすくらいなら、有意義に使ったほうがいい。
当たり前のことなのに、それがなかなかできないのも人間の性。人間は愚かだ。だから、自分を上手く律することだ。
つまり、”自律”すること。
それが現代人には、足りていないのかもしれない。