わたしは今、喫茶店でホットのミルクコーヒーを飲みながら、これを書いている。隣の二人掛けのテーブルは空いている。正面には70代くらいの女性3人組。そして40代くらいの母親、中学生の息子、小学生の娘と思しき親子3人組。
ちょっと前まで仕事をしていて、1本目の記事を書き終えたところだ。もう何年もお客様でいてくださる、毎月取材をさせていただいている経営者の方。ありがたいことだ。毎回必ず、「最高です!いつもありがとう!」と言ってくださる。こちらの台詞です。面白い記事を毎回書かせていただいてありがとうございます。
イヤホンを外して休憩していると、隣の二人掛けのテーブルに親子がやって来た。40代と思しき母親と女子高校生。女の子は大盛のかき氷に練乳をトッピングしたものを、母親はアイスオーレをご注文。しばらくすると女の子はかき氷を頬張りながら、数学の宿題をし始めた。
本人が一人で問題を解いているのかと思ったら、そうではないらしい。「お母さん、ここわかんない。因数分解できない」と言うと、母親が女の子の正面から、問題集を逆さまに覗き込みながら教え始めた。理系出身なのか。それとも教育関係の方なのか。いずれにせよ因数分解を教えられる母親なんてそう多くはないだろう。
だるそうにかき氷を食べながら、靴を脱いでソファに足を畳んで座り、問題を解く娘。時々「かき氷食べていい?」と笑いかけながら、しかし時々しかめっ面で娘が書いた計算式をペンでつつく母親。
10代の娘と母親の、おそらく特別でも何でもない夏のひとときが、2メートルも離れていない距離にある。すぐ傍で繰り広げられるその光景がなんだか、とても眩しく、そして切なく見えるのはなぜだろうか。こうやって母と一緒に喫茶店で向かい合わせに座り、語り合ったことがわたしにもあった。こうやって母と、強敵だった宿題を前に、「わかんない、できない」と嘆いたことがあった。そんな一日が、今この瞬間から一秒、一秒と遡ったいつかの夏にあるはずなのに、随分と遠くに来てしまったものだ。
いつかの夏休みを思い出す。
外は土砂降りで、雷雨だった。母と二人で、宿題だった工作の貯金箱を作った。共働きで、且つわたしが長子であるために、なかなか母を独り占めできることはなかったから、母と向かい合って何かを作ることは、なんだか特別だった。他の家族がどこに行っていたかは記憶にない。どんな貯金箱を作ったのかも、その貯金箱がどうなったのかも、全く憶えてはいない。夏の湿った空氣が網戸の外から流れ込み、ベランダを叩きつける雨が時折飛沫になって室内に入り込み、床を濡らしているのを氣にも留めないで、母に「こうしたら、ああしたら」と言われながら手を動かした。母を独り占めしているという優越感に浸っているのを、嬉しいのを隠しながら、制作に打ち込んでいる振りをしていたような、氣がする。どうしてこの記憶が呼び起こされたのかは、わたしにもわからない。
わからないが、思い出してしまって、嗚呼…とも思う。
あの日から、わたしは一瞬たりともワープしたりすることはなく、ただただ淡々と、一秒一秒をカウントしながらここに流れ着いたのだ。「想い出」という、色も温度も濃淡もすべて自動保存されるのに、いつの間にか褪せていくそれらと共に、憶えていたいこと、忘れてしまいたいことのコントロールもできないままに。
隣の女の子は、今日という日を、生涯憶えているだろうか。ただなんとなく、氣怠く流れていく日々の一部として、何の引っ掛かりもないまま忘却の彼方へ、追いやっていくのだろうか。
真っ青なかき氷のことも。
練乳の甘さも。
目の前の母の、眼差しも。
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愛おしい瞬間というのは、そうだと後から氣づくこともあるもので、たとえその瞬間、そうとわかったとて、「憶えていたい、憶えていよう」と思えども、その時その瞬間のまま憶えておくことは、ひときわ難しい。
些細な日常にこそ愛があるものだと、因数分解よりも先に教えてほしかったと思う。そう、学校は、大事なことはちっとも教えてくれないのだ。何でもない日々の中で、愛を数えながら息をする。因数分解も大事かもしれないが、そういうことを元来人間は、魂は、経験しに来たのではないのか。貯金箱を作ったときに、母はどのような眼差しをくれたのだろうか。きっとそこに、愛が滲んでいただろう。それを今になって感じたいと思うわたしは愚かで、愛おしいほどちっぽけである。
隣の親子が片付け始めた。帰るらしい。
宿題が首尾よく終わりますように。
あなたが、母の愛に溢れた眼差しに、氣づきますように。
相変わらず正面には、60~70代くらいの女性3人組。そして40代くらいの母親、中学生の息子、小学生の娘の親子3人組。
何を話しているんだろう。
何を見ているんだろう。
何を考えているんだろう。
何を感じているんだろう。
今日の出来事は、皆さんの記憶に、残るのでしょうか。
わたしはこの記事を書いてしまったから、今日の出来事は「かき氷と因数分解」という異様な組み合わせのタイトルで、「いつかの夏」という脳内フォルダに、きっと保存するでしょう。
そんなことを考えながら、冷めたミルクコーヒーを飲み干して、わたしは本日2本目の記事に、ようやく取り掛かる。
(「かき氷と因数分解。」 2024.8.21 wrote )
わたしは今、海沿いにある大型ショッピングモールのフードコートで、ホットのミルクティーを飲みながら、これを書いている。カウンターテーブルは空いていて、わたし以外誰もいない。正面に見えるのは高齢の女性3人組でも親子3人組でもなく、海と船。今日は晴れているけれど白んでいるので、顔を上げると少し眩しい。
ちょうど、一年前に書いた記事を見て、あれからもう一年も経ったのかと驚嘆する。一年前の夏とは全く異なる場所で、異なる環境で、これを書いていることにもまた、驚嘆である。
上記の中に出てきた”1本目の記事”の依頼主は、今年の3月で契約満了となった。理由は経営不振による経費の削減だったのだが、まだ夏はお客様もお元氣でいらした。3月にお会いした時は落ち込んだご様子だったので心配していたが、共通の経営者の方からなんとかお元氣にされている、とは聞いた。会社もまだ閉めずにいるそうだ。懐かしいなぁと思う。そしてまたご縁があったらご一緒させていただきたいなと、海を眺めながら思う。
今年は、個人的にお盆までは本当に忙しなかった。やっと落ち着いて、いろんなことに取り組めるようになってきている。ちょうど上記の記事を書いた直後に病氣がわかり、療養に専念して約一年。やっと、外に出られるくらいには元氣になった。短時間なら、人に会えるようにもなった。とてもつらい日々だったけれど、本当にたくさんの学びをもらった。
これまで相当、身体に負担をかけてきたということ。
それにも氣づかずに、生きてきたこと。
身体は良くなりたくて、不調を起こして氣づかせようとすること。
医療の常識は必ずしも正解じゃないこと。
献身的に支えてくれる家族がいること。
愛されているということ。
もらった愛に報いたいと願うこと。
すべてが当たり前じゃないということ。
書き出したら切りがない。毎日健康に生きていられることがどれだけ素晴らしいことか。これでもかというほど思い知らされた。しかしわたしは完治したら、こうして考えたことも感じたことも忘れてしまうのが怖いと思う。何でもない日々の中で、愛を数えながら息をすることが、多くの人間にはとても難しいことだと知っているからだ。わたしも含め、人間とは素晴らしい存在である反面、かくも愚かな存在だ。どちらも理解していなければならない。
もう一度同じ病氣をしたいとは当然思わないが、それでも、この日々で感じたことのすべてを忘れないでいたいと思うほど貴重な日々だったと、元氣になってきた今だから思える。病氣になって向き合ったことや得られた氣づきは、また別の機会にまとめてみたいと思う。そう、忘れないように───。
2席空けて左側に、女児が二人腰掛けた。まだ夏休みだから、小学生も多い。
「ママーーー!!船がいっぱいいる!!キラキラしてる!!」と興奮して、その手には少し大きいスマホで、写真を撮っている。ママと呼ばれた人物はわたしの視界には入らないのだが、わたしの背後にあるBOX席にでもいるのだろう。
キラキラしてるというのは、水面のことだろうか。今日は波も穏やかだから、本当だ、キラキラしている。
そのカメラに、あなたの目に映ったキラキラは、上手く映ったかな。
しばらくスマホをいじったりキャッキャしていたが、ママらしき人が迎えに来た。席を飛び降りて走ってママの後を追う二人のショートパンツはお揃いの柄だった。おそらく姉妹だったのだろう。
写真を見て、いつか思い出しますように。2025年の夏休みを。
姉妹で海を見たことを。たくさんの船に思わず叫んだことを。
”キラキラ”をしっかりと映し出せる瞳を、あなたは持っているということを。
もう戻らない、夏休み。
かき氷を食べながら宿題をしていた親子も、海に興奮した幼い姉妹も、ここにはもういない。
冷めたミルクティーを飲み干しながら、わたしはまた一つ、こうして夏を、見送った。
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