【参拝のマナーと運氣】あるお寺で起きた珍事件から考える

深海の書斎~内省の果て~


 こんにちは。深海の書斎です。

 今日は、つい最近、某有名なお寺の関係者の方に聞いたお話を元に、考えさせられたことを綴っていこうと思います。お付き合いいただけたら嬉しいです。

ある有名なお寺で起こった珍事件


 誰しも神社やお寺にお参りに行ったら、お賽銭をされるかと思います。
 神社でもお寺でもそうですが、所定の場所にお賽銭箱があって、そこにお賽銭をするのがマナーですよね。

 これは、皆さんが神社やお寺の運営に携わっている方としてご想像いただければわかることですが、盗難に遭わないためでもありますし、勝手氣ままにいろんなところにお賽銭を置いたり投げたりされては、管理上困るからです。だから、どこか所定の位置に集めるわけですね。

 そして、お賽銭箱には「浄財」と書いてあるのを見たことがありませんか?浄財とは読んで字の如く、「清らかな財」を意味します。そう記された箱へお金を入れるということは、「清らかな心(利を求めない)で捧げます」ということであり、執着を捨てる、という意味も込められているのですね。また、「浄財」と記された賽銭箱自体が、念(穢れ)が乗りやすいお金を浄化する装置でもあると、わたしは昔教わったことがあります。

 …とまぁ、大前提はこの辺りにしておきますが、先日、とてもお世話になっているお寺の関係者の方から光栄にもお声がけいただき、久しぶりにお会いすることができました。そこでいろいろなお話を伺ったのですが、「最近困っていることがある」と仰るのです。

 それは、あるYouTuberの方が自身の動画内でお寺を紹介されたそうなんですが、その際に、敷地内のある場所で「ここに500円玉を置くと金運が上がる」と発信したそうなんです。お寺は大自然の山の中にある歴史あるお寺なのですが、その”金運が上がる”と言った場所は、もちろんお賽銭箱…ではなく、関係者からすると「え、あんなところに?」と驚くような場所だったそうです。
 動画ではその場所はモザイク?がかかっていたそうですが、それでも既に相当な額の500円玉が置かれていて、回収も大変。当然、盗難のリスクがあることは想像に易く、もしも物騒なことがあってからでは遅いので頭を悩ませている、と。そんな関係者の懸念とは裏腹に、「ここはどこにありますか?」とモザイクがかけられた動画を見せながら尋ねる参拝者が後を絶たないんだとか…

 「お寺始まって以来こんなことは無かった。とても困惑しているし、(金運の話は)なんの根拠もない」とはっきり仰っておられ、「ここはどこにありますか?」とお尋ねされる参拝客の方には「そのような場所ではありません」とお伝えし、お金を置かないようにお伝えしていると伺いました。
 わたしはその日、複数の方にお話を伺いましたが、皆さんはっきりとは仰らないものの、わたしが受けた印象は「みなさん、お寺に御勤めの方々なので言葉は濁していらっしゃるけど、思いもよらない迷惑な出来事なんだな」でした。

 わたしはその方の動画を観ていません。お寺の皆さんのお話を伺っただけです。なのでその動画のことをどうこう言うつもりはありません。しかし、お寺の関係者の方々がとても迷惑に感じていることは確かです。門前町でもその一件は有名になっているようで、あるお店でお話を伺ったときにも話題になり、「500円玉事件」と呼んでいらっしゃって、実際、地元の方々のお話を聞いていると、残念ながらそのYouTuberの方の印象はだいぶ芳しくなく、不快な印象をお持ちの方もいるようでした。

 歴史あるお寺で起こった珍事件。この先どうなるのでしょうか。

善行とは?愚行とは?


 ここからは推察も入りますことを先に申し上げておきます。

 そもそも、そのYouTuberの方がどんな目的でYouTubeをされているのか存じ上げませんし、この件の動画に関しても、どのような目的を持って発信したのか、わたしには定かではありません。聞いていたところスピっぽいので、パワースポットとかを紹介するアカウントなのかもしれません。そのお寺を崇高にお慕いしているのかもしれないし、フォロワーさんが喜ぶと思ってそのお寺を取り上げられたのかもしれません。また、「金運が上がる」なんてご自身のアカウントで仰るからには、靈能者か誰かが言っていたとか何かしらの根拠はあるんだと推察します(真偽はわかりませんが虚言であってほしくない)。

 たとえばそれが、「このお寺は素晴らしいお寺だ。フォロワーさんにも知ってもらいたいし、たくさん人が来たらお寺も喜ばれるだろう」と思っての発信だったと、仮にしましょう。この想いだけだったら、”善行”になるのかもしれません。でも実際、蓋を開けてみたらどうでしょうか?お寺の方の仕事は増え、「そんなところに500円玉を置くのはやめてほしい」と思われ、「(金運の話は)なんの根拠もない、そんな場所ではないですよ」と参拝客へ対応させ、地元の方にもよく思われていない。

 これは、”善行”といえるでしょうか?

 わたしは個人的に、お寺の関係者の方には以前からお世話になっていて、地元の方の中にも仲良くしてくださる方がいます。その方々の話を聞く限りですが、この事件は関係者を困惑させているし、この出来事で良い思いを抱いている人はいませんでした。

 今回の件でわたし個人の目に映ったのは、「人間の”善行”は、必ずしも”善行”とは限らない」ということ。それだけの方がお金を置いていっているのですから、フォロワーさんは喜んだかもしれませんし、PV数も伸びた(でしょう)からご本人も喜んだことでしょう。しかし結果的に、お寺や地元の方というお寺に近しい人々のことは置き去りにして、”愚行”に走ったような構図にしかならなかった。わたしにはそう見えたのです。

 お話を聞いた中の、ある一人の方が仰っていました。
 「お金儲けのためにお寺(の名前)を使ったのなら、いつか痛い目に遭う」と。

 そんなことにはなってほしくないですが、それくらいの学びがないと、学べない、学ばない人間が存在していることも、残念ながら事実です。

結局、参拝の作法が「運氣」を決める?


 ところで「観光」とは、「光」を「観る」と書きます。
 近年では本来の意味を失いつつあるこの「観光」ですが、「観光地」とは、「光を観る地」であり、苦も楽もある人生の中で思い悩んだとき、一筋の光明を見出すための場所なんだとわたしは思うのです。それは、自分なりに一所懸命考え行動し、それでも思い悩むわたしたちのことを、目には見えないけれどいつもわたしたちを見守ってくださっている存在───それは、神様や仏様、守護靈様、ご先祖様など───がきちんと知ってくださっていて、そうやって真面目にその命を生きようとするから、一筋の光明へ導いてくださるものなのだと、わたし個人は思うのです。

 根拠があるのかないのかわかりませんが、「金運が上がる」なんて多くの人が好きそうなキーワードで情報を流し、お寺に仕え靈験あらたかな「観光地」をいつも守ってくださっている方々にご迷惑をおかけすることが、果たして”善行”だったのでしょうか?「これでPV数を稼ぎたい」という邪な想いは微塵もなかったと言えるのでしょうか?いつの時代も、「金運が上がる」とか「これで痩せる」と言われると、その情報に飛びつくのが人の性というものなんです(楽して良くなるものがみんな好き)。だから、純粋にお寺を想う氣持ちがあったなら、「金運が上がる」なんて言ったらどうなるか、想像できなかったものでしょうか?
 もちろん「金運」のことだけを発信したわけではないと思いますが、その方はお寺の魅力を伝えたかったのではなく、「金運が上がる」ということを動画にしたかっただけなのでは?と思ってしまう。それくらい、わたしにはこの一件は”愚行”に見えます。

 そして、触発される側にも問題があります。冒頭に書きました通り、お賽銭箱があるのには理由があります。そういったことを知らなかったのならば百歩譲って「次回からはお賽銭箱に納めましょうね」で終わりますが、「金運が上がる」と聞いてそこに置いているのだから、邪念が乗ったままのお金を、本来ならば置いてはいけないところに置いてきたわけですよね?

 それで、運氣が上がると思いますか?

 煩悩を否定するつもりは一切ありませんが、本当に金運を上げたいのであれば、人が喜ぶことにお金は使わなければならないと思います。
 ということはつまり、少なくとも人(お寺の関係者)が喜ばないお金の使い方(置き方)をしている時点で、もしわたしが仏様だったらアウトを出しますね。だって、自分に仕えてくれているお寺勤めの方が困っているのだから。「そういうこともすべて赦すのが高次の存在だ!だから何をやっても大丈夫!」とか言う人はこのブログを読まなくてよい人ですが、たとえそうであったとしても「これで金運が上がるはず!」というのは思い上がりだと思うのです。

 生きていたら、いろんな人に出逢います。
 すべての方に迷惑をかけないなんて不可能です。

 それでも、「郷に入っては郷に従え」。せっかくご縁をいただいてお参りさせていただく「観光地」なのですから、全国からやって来る方々が氣持ち良くお参りできるようにいつも綺麗に保ち、守り、働いてくださっている方々への敬意を持ってお参りしませんか?

 「金運を上げたい」とか、そういった自分の願いに純粋なのは悪いことではありません。でも、実際にお寺の方が困っているような訳の分からない情報を闇雲に信じるより、お寺や神社、その関係者の方々に”人として”敬意を持って礼儀正しく振る舞い、純粋な感謝の心でお参りしませんか。

 そうやってお参りする人は、とても見ていて氣持ちが良いし、きっと本人も清々しい氣持ちでお参りできると思います。「金運」に繋がる保証はないけれど、神仏は必ず、その行いを見ていると思います。

 そういう心持ちで「観光地」を訪れるほうが、結果的に「金運」も上がるんじゃないかな?とわたしは思います。

 皆さんは、どう思いますか?



 

 
 

 


 

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