神社仏閣は基本的に好きだ。自分との相性もあるので行けるところとそうでないところもあるし、「呼ばれる・呼ばれていない」と形容されるような、自分の意図と関係なく行く流れになるところ、そうでないところもある。
ある時まで、わたしは伊勢神宮に行けなかった。それは、「なんとなく行く氣にならない」という氣持ちの問題のようにみえる理由であった。たとえば観光目的で友人たちと行こうとなればついては行くのだが、どうしても居心地の悪さを感じてしまう。「こんなに由緒ある神聖な場所に対して行きたくない、早く帰りたいと思うなんて、わたしってすごく罰当たりなのでは…」と心密かに長らく氣にしていた。
当時は自分の靈感の特性について理解していなかったので仕方のないことではあるのだが、後にお世話になった信頼できる靈能者がわたしに、「深海さんは邪氣に特に敏感だから、参道に落ちているいろんな念が無理だったんでしょうね。伊勢神宮のようなところは多いですからね」と言ってくれた。「だから、伊勢神宮が深海さんのことを歓迎していないとかそういうことではないし、氣にしないでいいですよ。まぁ、あまり人が多いときには深海さんは行かないほうが無難でしょうね」とアドバイスもくれた。
すごく肚落ちしたアドバイスだったし、振り返ってみてもまさにその通り。わたしは人の念に非常に敏感なのである。最近ではどうしても、年始に御参りへ行きたいと思えない(ある時までは家族で行っていたが)。特に正月は「くれくれ」のエネルギーが落っこちていてどうしてもしんどくなるのだ(初えびすとかの商売繁盛系は特にね)。
そういうときは、行かないに越したことはない。別に直接行かなくても神社仏閣とは繋がれることを知っている。好きな神社やご縁のある加護をいただいている場所であればお守りや御札を持っていたりするので、そちらに向かって祈ればいいだけのこと。だから、最近は世間のイベントが落ち着いたタイミングでお参りするようにしている。
冒頭にも書いたが、意図せず「呼ばれる」場合ももちろんある。この表現はいかにも”スピ”っぽくて好きではないが、わかりやすいのでここでは不本意ながらそう表現することにする。
何年も前の話だが、当時お世話になっていた敏腕女性経営者の方から、温泉旅行に行かないかとお誘いを受けた。わたしは当時経済的に余裕がなかったため、「〇〇さんだから正直に言いますが、今わたし、お金ないんです!なので今回は残念ですが、またの機会に誘ってください!」と正直に理由を告げてお断りしようとした。 すると、「交通費も出してあげるし、宿泊も知り合いのところやから格安なのでわたしが持ちます。だからおいで」とまさかの返信!「いやいやそんな、そこまでしていただく理由がないですし、申し訳ないですし(おまけに他のメンバーは知らないのでアウェーだし)…」と食い下がったが、「遠慮しなくていいから、深海ちゃんもおいで。わたしが一緒に行きたいねん」と。目上の大先輩にそこまで言われたら、断る方が失礼か…と観念し、お言葉に甘えることにした。 「わたしが一緒に行きたいねん」なんて、わたしがOKを出しやすいように言葉を選んでくださったのはさすがだなぁと思った。やはり成功している経営者さんは違うなぁ、嗚呼わたしは恵まれてるなぁ、ありがたいなぁ…と、感謝しきりで、思いがけず決定した旅行を素直に楽しみにしていた。
温泉旅行とは聞いていたが、それ以外のことはほとんど何も知らなかった。すると、初日にある神社へ行くと告げられた。
「その神社は、行ける人しか行かれへんねん。わたしは何回か行ったことがあるけど、行ったらあかん人はナビが狂ったりして、ほんまに辿り着けへんねん」とも言っていた。わたしはその神社を知らなかったので、「へ~そんな神社があるんだ~」くらいに思っていた。
その神社での出来事はここでは書かないが、後にものすごい神社だったことがわかり、「よく行けたね」とか、「僕は行こうとしたけど道に迷って、結局断念した」とか、とにかく知る人ぞ知る「行けないことで有名」な神社だったのだ。そうとも知らず一度は断ったのに連れて行かれ、今でも「あの神社へ行けたのは一体どういうことだったんだろう…」と不思議に思ったりもする。しかし一つ確かなのは、その後わたしはその土地を靈的に守護している仙人のような方と知り合い(だいぶ怪しかったけど)、人として大切ないろんなことを学ばせていただいたので、「ご縁をいただけたんだな」と考えている。
もう一度行くことが許されるなら、ここまで生き延びられたことへの感謝を伝えに、御礼参りに行きたいなぁと思っている(一人で行ったら迷子になりそうで実際は怖くて行けないのだが…)。
もう一つ、わたしにとって大事な「呼ばれた」体験がある。まだ最近のことであるが、それはお寺である。「呼ばれないと行けない」と名高いお寺で、険しい山の中にある。
ひょんなことから訪れることになったそこは、下調べもほとんどせずに当日になってバスと電車を乗り継いで現地まで向かうことになった。バスも電車も、まるで迎えに来てくれたかのようにほとんど待つことなくスムーズに乗れた。「なんだか幸先がいいなぁ」と思いながら向かうと、門前に着いた瞬間、不思議な氣持ちになった。
「嗚呼、なんか、初めて来た氣がしないなー…」
初めて訪れた場所で、こんな風に感じたのはそれこそ初めてだった。なんだろう、懐かしい感じ。比較的都会で育ったので、山深い辺りの景色に懐かしさを感じるような郷愁は持ち合わせていないはずだった。にもかかわらず、とても懐かしい感じがしたのだ。「これが日本人のDNAに刻まれている、懐かしさの原風景なのかしら」なんてことを考えながら、山道を登ってお参りをさせていただいたのを憶えている。
後にわかったことだが、わたしはこのお寺で、過去生を過ごしていた。とても興味深いと思う。だから懐かしいのだし、「呼ばれた」のだなぁと妙に納得した。
こんなことは信じなくても良い。信じたい人だけ信じてくれれば良いが、わたしの魂に刻まれた真実なのであり、非常に重要な邂逅であったことは間違いなく、この訪問から大きく人生が転換していくこととなった。良くも悪くもいわゆる「カルマの解消」と表現されるような出来事が待っていて、紆余曲折の中で時に自分をすり減らしながら清算していくプロセスでもあったわけだが、わたしは結果的に「呼ばれて」良かったと思えるし、今でもとても懇意にしている大好きなお寺である。
神様や仏様は時に特定の人を「呼んで」いる。それには理由があるのだが、大抵の場合は人間であるわたしたちには理由がわからない。それでもやはり、回避しようにも行く流れになるとか、そういうことは、まま起こる。
そんな時は、抵抗しないのが一番だ。「呼んでいただいたのかな。こんな自分を。ありがたいな」と思って、誠心誠意、お参りとお祈りをする。それで十分。その姿勢を神様は、仏様は、きっと求めているのだし、「呼んでよかった」「よく来たね」と思われることだろう。理由がわからなくても、そんなことはどうだっていい。あちらにはあちらの理由があって、きちんとお顔を見せることができれば、視えない世界で万事は運んでいく。
呼ばれてもそうでなくても、伺うことができるのはご縁がある証拠。
目に見えない存在は、その存在は視えなくても必ず、わたしたちを観ている。
【視えなくても、観ている】呼ばれるとか、呼ばれないとかの話
深海の書斎~内省の果て~

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